2008年06月

武装勢力(タリバーン)との交渉は絶対にしないとするブッシュ政権にギラニ首相は強く反発、政策の転換をし、対話を開始したのが4月。わずか3ヶ月足らずで再びタリバーンを掃討することになって、穏健なギラニ首相はガッカリしていることと思う。
2001年からのアメリカ主導によるタリバーン掃討の政策は失敗し、国民の反発を受け、さらには莫大な軍事費を使ってパキスタンは国家として疲弊した。

新政権とタリバーンとの和平交渉は順調のように見えたのに…  新聞では一昨日から「事実上失敗」の見出しが躍っている。そして、今朝の新聞に至っては、第一面の全面トップ、「武装勢力との戦いに軍が行動」と。  TVでも和平交渉失敗を一昨日の夕方から延々と流している。
「物事は、互いに話し合えば理解が出来る」とは思ってもいないが、和平交渉の失敗は即、治安の悪化に繋がる。

一昨昨日の新聞ではスワットの奥にあるリゾート地で、政府公営のホテルが焼き討ちに遭い死傷者数名と。
政府やタリバーンの指導者たち、あるいは中心人物たちが和平について真剣に努力をしていても、必ずそれに反対する勢力もあって、どこで躓くかは分からないし、アメリカだって和平交渉の邪魔をした可能性は大きい。
約1ヶ月前に北西辺境州で一番力を持つ政党が、スワットで和平協定を結んだ。快挙だったと思うが、タリバーンの一部は納得しなかったのだろう。そしてブッシュ政権も。

ブッシュ政権は(本当かどうかは知らないが、たぶん本当だと思われるが)パキスタン政府に、「有事の際には、米軍はパキスタン政府の許可がなくとも米大統領の承認だけで(攻撃)価値の高い標的を攻撃する」と伝えているとか…。まったく、アメリカは国家の主権をなんと心得ているのか…

ギラニ首相はタリバーンに対し「武器を捨てない者とは、もはや交渉しない」と最後通告を行ったというが、ある面ではアメリカに押し切られた感じもある。穏健、常識派のギラニ首相にとっては実に残念な「最後通告」だったろうと推測する。でも諦めずに、和平交渉を再開して欲しいと祈っている。

政府軍はペシャワルの町外れに続々と集結、掃討を再開。早々と爆撃の写真などを掲載している新聞もある。爆撃の音に脅かされているのはタリバーンだけではない… 実に残念でならない。

40年近くもの昔、在日パキスタン大使館に勤めていたパキスタン人のご夫妻が、久々にお見えになった。ご夫妻と子どもたち4人は30数年前にオバハンの田舎へ1週間ばかりも遊びに来られたことがあった。日本の家は障子と襖で区切られているだけで、どの部屋にも鍵がないと驚き、不安で寝られなかったと、きょうも懐かしそうに大笑いしておられた。
「風呂屋というものに行ってみたい、皆が裸で入るというのは本当なのか?」と尋ねられ、風呂屋へもお連れした。結局、自分は番台の横の椅子に腰掛けて、心底驚いた様子で日本の習慣を眺めておられただけだった…。
舟遊びをしたり、お城へ登ったり、道端にあるお地蔵さんのお供え(果物)を食べたというのは、オバハンの記憶にはないから、オバハンの目の届かなかったところで子どもたちはお供えの果物を食べたのかもしれない…

「パキスタンでは停電も多く不便。水にも不便をしているのだろうし、諸物価高騰で暮らし難いだろう。何よりも爆弾がいっぱいで危ない、危険だからアメリカで暮らせ。アメリカへ来いと娘や息子にワイワイ言われ、どうしょうもないのでアメリカへ行きます」と、今回は挨拶に見えたのだが…
「子どもたちが心配をするのは分かるが、私たちにとっては停電が多いのも、水に不便をするのも大したことではないのです…パキスタンなのですから…。 新聞が危険だと書き連ねるから実情を良く知らない人は心配をするのです。」と、奥さんに至ってはアメリカへなど行きたくないと半泣きの態だ。
ご夫婦共に海外暮らしは長い。度々、アメリカへも行かれているのだが、今回は家を処分しての渡米、年齢も年齢、もしかしたら2度とパキスタンへは帰って来られない…と思っておられるのかも。78歳だというご主人は矍鑠として見えているが。

お隣のマダムもご主人が亡くなった後1年してから、つい先日、アメリカへ行かれた。こちらも「子どもが来いと言うので、3ヶ月間だけ行って来ます。留守にしますから何かの折には家を見て置いて下さい、ヨロシク~」ということだ。
911同時多発テロ以降は、欧米からの帰国者が急増したが、あれから7年、そろそろ911ショックも冷めたのかアメリカへ行く人が増えた。先進諸国の暮らしは電気や水にも恵まれ便利かもしれない、しかし心が休まらないと多くのパキスタン人が言う。オバハンもスローライフがし難い気忙しい日本は苦手だ。
「世界でもっとも暮らし易い都市は…」なる記事で、東京が世界で36番目???だとか出ていたが、オバハンにとっては暑くても、水がなくても、停電が多くともイスラマバードが一番だ。

生きていれば、昨日はブット元首相55歳の誕生日だったというので、生地には親族や熱烈な支持者たちが集まり、祈りを捧げている写真が1面トップを飾っている。暗殺された現場でも、首相たちによって花が捧げられている。

PPP(パキスタン人民党)に最も忠実だと言われるギラニ首相(パキスタン政府)は、ブット元首相への追悼の意を表し、イスラマバード国際空港を「ベナジル・ブット国際空港」に改称したと。 う~~む、イマイチ違和感があるなぁ…
ギラニ首相は、「彼女はまだ、私たちの心の中で生きている」との声明を出したという。確かに熱烈な支持者たちの間では、そうであろう。父ブットは民主主義というイデオロギーをパキスタンで初めて標榜した。その偉大な?行為に対して、彼らの心の中で父ブットが生き続けているのと同じように。
しかし、首相として彼女がなしたことは(惨いようだが)、暗殺されて、今回の選挙でPPPを勝たせただけではないのか? 首相としてパキスタンのために、何かをなしたかと改めて問われれば、どう答えるのか?

どこまでが本当かは知らない。しかし先般、ロンドンで出版されたという「ブットの回想録」は、国内でも物議を呼んでいる。

日本の報道の多くには、アフガンでタリバーンによるテロが増えたのは、パキスタンで3月に誕生したギラニ新内閣が、武装勢力との対話路線を導入してからだという論調が多い。ごく短期的な結果から見ればそうかもしれない。そうだろう。
パキスタンの路線変更に懐疑的だった米国やアフガニスタンは、それ見たことか!とワイワイうるさい。それも事実の一つには違いない。だが、それらはいずれもアメリカあるいは国連の発表を、一方的にそのまま流しているにしかすぎない…。そもそもの問題の根っこは何処にあったのか?

アフガンに、共産主義と戦うためのムジャヒディーンに莫大な武器を流し込んで武装勢力に育てたのは誰か? タリバーンを作り上げ、ムジャヒディーンに対した時と同じように、大きな武装勢力に仕立て上げたのは何処の国なのかをしっかりと思い起こして欲しいものだ。どちらの武装勢力もアメリカが育て上げたものではないのか? 
ムジャヒディーンはロシアの共産主義(無神論者=イスラームの否定者)と戦った。
タリバーンはアメリカというイスラームの否定者と戦っている。どちらの武装勢力もイスラームを否定する勢力との戦いに意義を見出していることを認識すべきだ。

報道によると、パキスタンでは5月半ばに北西辺境州で政府と武装勢力が“和平協定”に合意。武装勢力の攻撃目標がパキスタンからアフガンへ移った可能性があると言う。カルザイ大統領はパキスタン側からのタリバーンの越境を指摘、「軍を動員した越境攻撃も辞さない」と一方的にパキスタン側へ警告しているが、元々はアフガンの治世が拙くて生まれた武装勢力が、パキスタンへ逃げ込んで、揉め事が2重に複雑になったのではないのか(パキスタンにも、パキスタンなりの複雑な事情があるにせよ)。 それを忘れてもらっては困る。

いまパキスタン国民の多くは、アメリカの傀儡大統領のカルザイの言い草に怒り心頭というところか。もちろんパキスタンびいきのオバハンも、被害者面だけをして肝心のことは口をぬぐって言わないカルザイの強気に不愉快極まりない。

未明、緩々回しの扇風機が停電で止まり、蒸し暑くて目が覚めた。昨夜は停電の10分前に水を2分間だけ浴びて濡れたまま服を着て、そのまま扇風機の下で体感温度を下げながら寝たら快適だった! 若い頃にはよく使った手法だが、ここ数年は停電も少なくて忘れていた。まったく必要は発明の母だわ! 
息子はエアコンを使えと言うがエアコン内に巣を作っている小鳥を思うと、とてもじゃないがエアコンは使えない(電気代をケチって喜んでもいるが)。 「モンスーンになったら気温が少しは下がるから…」と、言い訳しながら今夏も過ぎる。 新聞では、まだモンスーンに入ったと報じていない。しかし今朝の降りかたはモンスーンの雨だ。

昨年、ムシャラフに解任されたチョードリー前最高裁長官を復権させよとする、ロング・マーチは9日(だったか?)から始まり、参加者を増やしながら13日イスラマに到着。
イスラマでは10日から40フィートのコンテナを大統領官邸前の道路に並べてバリケード。「ちょっとした見もの」だと、イスラマっ子が言うくらいだから、相当数並べたのだろう。 とりあえず、ここ2日間は6月にしては暑くない曇り空で、デモ隊には大いに助かったことだろう。が、それでも熱中症で倒れる人は続出だったようだ。

政府としてはロング・マーチが平穏に行われている限り、その行動を止めることは考えていないと言っていたように、衝突のない紳士的な集会だった。元首相のシャリフ派PML(N)の旗が大半で、反PPP集会の様相がなきにしもの感じも免れなかったが…。

地元テレビによれば最終的に10万人規模に達したと言っているが、集会場の後方スペースを見る限り、数万人というところか。夜中まで集会の声が聞こえていた。 不測の事態にそなえるためにと、イスラマバード市内では久々の最高警備体制が敷かれていたが、きょうは解除。雨のせいもあって静かな日曜日で幸せ。

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